2022年12月21日2022年12月24日 正力松太郎、警察庁 今年は日米でプロ野球が大いに話題になりました。アメリカではもちろん大谷翔平選手で、彼の毎日のプレーが歴史を掘り起こしたり新たな道標を築いたりといった風に、まさにスーパースターとして超然とした成功を収めている様子が窺い知れます。 ここ日本では、投手では佐々木朗希選手、打者では村上宗隆選手の活躍が著しく、それぞれ2001年と2000年の生まれといいますから、これから更にレベルが高いプレーを披露してくれるものと期待ができます。 オマケとして、ペナントレースの終盤に坂本勇人選手の醜聞が出回ったりもしましたが、露出度が高い球団の所属ということでちょっとしたことでも拡散されて不憫だなと思う一方で、古風な言い方ではありますが「球界の盟主・読売巨人軍」の主将として見ると脇が甘かったなとも感じます。 「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍は常に紳士たれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」という有名な言葉は、オーナーであった正力松太郎の遺訓ですが、少なくとも今回そのひとつに背いてしまった格好です。 正力松太郎は1949年(昭和24年)、日本プロ野球史上初のコミッショナーに就任し日本野球連盟の会長となった人物で、プロ野球界に多大な貢献があった関係者を対象とした正力松太郎賞にもその名を遺しています。 そんな彼とぱちんこ業界は、ちょっとした接点があります。新聞社のオーナーになる前、統計分析によって世相を観察することに興味を持っていたこともあり警察庁に居たからです。 調べてみると1913年(大正2年)警察庁に入庁し、その後は神楽坂などの署長を経て第一方面監察官として取り締まりにあたり、最終的には警務部長にまで昇格しています。 退官する切っ掛けになったのは、1923年(大正12年)の関東大震災以後に頻発した騒動のひとつである虎ノ門事件です。 これは帝国議会の開院式に臨席するため移動中の皇太子(後の昭和天皇)が乗る車を共産主義テロリストである若者がステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した事件で、警護体制の不備を問われて懲戒免官になっています。 この翌年、皇太子御成婚の慶事によって懲戒免官は解かれましたが公職には戻らず、経営が傾いていた読売新聞社の社長に転身し球団経営にも着手するなどして成功を収めたため、まるで最初からずっと実業家だったようなイメージが定着していまに至ります。 意外に知られていないこととしては、民間で初となるテレビ放送局を設立したことでしょうか。 たまに戦後テレビ史やプロレス史の企画物で目にする新橋西口広場などへの街頭テレビ設置は、彼の手によるものです。力道山が空手チョップで外国人レスターをなぎ倒して、黒山の人だかりとなった路上視聴者たちがその活躍に熱狂するという、あれです。 些か乱暴な括りかもしれませんが、それから数十年間はまだテレビもパチンコも「大衆娯楽」だった時代です。では、いつから「そうではなくなった」のか? この程度のものを見せていれば満足するのが大衆だとでも言わんばかりの番組内容になったり、ユーザーの表情や遊技状況を気にするよりも金策に明け暮れるような営業環境になったのはいつからで、なぜそうなったのか? 1960年代(昭和35年~44年)の国民的な世相を指して「巨人・大鵬・卵焼き」と称しますが、監督も選手もプライベートを叩かれ、稽古の度を越えた暴力で事件化し、巨人と相撲は大衆から支持されるものではなくなったように見えます。もちろん、価値観の多様化や相対化されやすくなったということも関係しています。 ぱちんこ業界に関しては、前者と同様にかつて「大衆」から支持された・選ばれた余暇の過ごし方のひとつなわけですが、正力松太郎の遺訓ではありませんが、自律・自立可能なように身を処してきたのか、こんな遊びもあっても悪くはないかなと許容してもらえるような遊技環境を保つことができたのか、より良い産業になるべく何か自主的に目標を据えて取り組んで来たのか、こういったことを考えると「大衆娯楽の王様」の地位から失墜したのはやはり自分たちの在り方に原因があるからだと、改めてそのように思います。 関連 DIARY